発表・掲載日:2023/12/21

勝ち残った町工場が「発注者」に

ーー大手の工場閉鎖を乗り越えた横須賀のものづくり

横須賀のものづくりは、新たな時代を迎えつつある。江戸時代末期の軍艦建造に始まる由緒あるものづくりの町は、2000年前後に大手の工場が次々と閉鎖され、仕事を失った町工場は急速に数を減らしていった。しかし、技術を生かしながら事業内容を大きく変えて勝ち残った町工場は、新たな顧客や市場分野を開拓し、自らが「発注者」となる町工場も現れた。大手と中小がそれぞれ自立して新たな道を探す姿には、日本全体の「ものづくり」を再興するヒントがある。

久里浜工業団地は荒波を乗り越えてきた

久里浜工業団地は1960年代の高度成長期に造成された

地域を支えた発注大手の工場が次々閉鎖

 JR横須賀線の始発・終着駅である久里浜駅から、単線の線路の西側に久里浜工業団地が広がる。1960年代に造成され、立地する町工場の多くは横須賀市に工場を持つ大手企業に船舶や自動車の部品を納めてきた。しかし、日本経済全体に閉塞感が漂った2000年前後、大手企業は事業の再構築を断行し、関東自動車工業の横須賀工場、日産自動車の久里浜エンジン工場、そして住友重機械工業の浦賀工場が生産活動を停止した。
 久里浜工業団地を代表する一社、横浜製機は敷地面積5,500平方メートルの工場に150人が勤め、関東自動車工業向けに乗用車のボディ部品を月2万台作っていた。関東自動車工業から閉鎖までの心の準備に「3年」を与えられた横浜製機は、別の新たな量産拠点についてくるか問われたが丁寧に断った。1957年に船舶向け部品工場として横浜で創業した横浜製機には、日本の造船業の衰退を受けて自動車業界に転身した『実績』がある。関東自動車工業は現在、トヨタ自動車東日本として統合され東北地方などに生産拠点を展開している。日本の自動車産業は依然強いが、横浜製機は自動車の量産拠点は海外が中心になっていくだろう、と産業構造の変遷を冷静に判断した。

横浜製機は造船、自動車、鉄道車両へと顧客の市場分野をシフトしてきた

横浜製機は造船、自動車、鉄道車両へと顧客の市場分野をシフトしてきた

 売上の7割が3年後に消える。関根宗平会長(当時は社長)は、わずかに取引のあった鉄道車両向け事業の拡大に挑む。自動車向けで蓄積した板金加工技術、自動化技術を生かしながら、新たな武器として金型なしで曲面を自在に加工する「ダイレスフォーミング技術」を大学と共同で実用化。新幹線の先頭車両の曲面加工ができると売り込むため実物の2分の1モデルまで作った。
 新幹線のボディは受注できなかったが、アルミで樹脂を挟んだ軽量素材を複雑形状に加工する「YSパネル」が新幹線の天井内装に採用された。今では国内の鉄道車両市場においてドアの生産で50%超のシェアを確保する。「自動車業界で鍛えられた生産技術のおかげで新分野を開拓できた。関東自動車さんには今でも感謝している」(関根会長)という。

入野機工は事業再生の戦略商品「クラシックシリーズ」をいよいよ投入

入野機工は事業再生の戦略商品「クラシックシリーズ」をいよいよ投入

破綻した名門を継承し地域に発注

 かつて久里浜工業団地の雄だった内面研削盤メーカー・山田工機は、創業者の死去に伴い経営が悪化した。2020年3月に設立した 入野機工が事業を継承し名門の『復活』に挑んでいる。 2024年1月には戦略商品「クラシックシリーズ」をいよいよ新規投入する。職人の手作業に応える汎用機の良さはそのままに、位置決めなどの自動制御機能を追加したハイブリッド機だ。
 入野機工は、久里浜工業団地の近隣町工場に新たに仕事を発注している。その一社、川島工業は1952年に横浜市で創業し日本飛行機向けの焼付塗装で成長、2002年に久里浜工業団地の同業者を吸収した。2017年に横須賀市の仲介で旧・山田工機の再生に協力している。
 3代目の川島宏介社長は、理工系を学びながら音楽に没頭、会社勤めを経て家業に戻り2006年に32歳で社長に就任した。5Sもできていない吸収した会社の立て直しを進めながら、直後のリーマンショックのなか飛び込み営業で新規開拓を続ける。少量多品種に対応し、乾燥を待つ時間がない焼付塗装の短納期を武器に、現在、顧客リストは機械、鉄道車両、建材など幅広い業種の300社まで拡大。社員10人で年商1億7,000万円、十分な営業利益を確保している。

川島工業の川島社長は顧客リストを300社に拡大

川島工業の川島社長は顧客リストを300社に拡大

顧客リスト拡大、自社ブランド事業も

 板金加工のANAテックは2007年6月に設立、社員8人で鉄道車両や船舶の金属部品を製造している。2代目の安藤知史社長は3年前に41歳で事業承継、ものづくり補助金などを利用して設備投資を行い、やはり顧客リストを350社まで増やしたうえに、6年前から自社ブランド事業「Iron Life」をスタートした。鉄の特性を生かしたオリジナルの家具やキャンプ用品を開発・販売する。地元横須賀市の行政、観光施設や飲食店に製品を展示することで、自社ブランドの知名度を高め、新たな市場を開拓。売上高は過去最高を更新し、自社ブランド事業は全体の24%まで拡大している。

ANAテックは自社ブランド「Iron Life」で家具やキャンプ用品を企画・販売

ANAテックの安藤社長は自社ブランド「Iron Life」で家具やキャンプ用品を企画・販売

「派生分野がうまくいく。世の中は面白い」

 日本のものづくりは、1980年代の円高進行に伴い大手企業が生産拠点を海外にシフト、仕事を失った町工場は1983年の43万8,000社(工業統計・従業員4人以上の製造業事業所数)から2020年で17万6,000社まで減少。横須賀の町工場も同じように減少した。
 そのなかで勝ち残った町工場に共通するものは何か。まず「いろいろな補助金を活用し、神奈川県の受発注商談会も利用、とにかく明日の仕事を必死に考えた」(横浜製機の関根会長)というバイタリティと行動力だ。技術面では、横浜製機の複雑曲面の加工技術、川島工業の多品種少量で短納期の焼付塗装など、それぞれの強みを見極めて新しい顧客を開拓している。
 地域の産業構造はどうか。横浜製機はかつて売上のほとんどを地域内の大手に頼っていたが、現在の顧客はすべて横須賀市外になった。逆に、横浜製機が塗装などの仕事を近隣に出す「発注者」になっている。入野機工も、かつての山田工機に代わって地域に仕事を回している。町工場自身が仕事を生み出す時代になりつつある。また、受注側も「塗装の同業者が減っている。廃業で困った顧客が、自分で探して連絡してくることが増えた」(川島工業の川島社長)といい、町工場の減少は「残存者利益」の獲得が目の前まで来ている。
 横須賀に残った発注側大手との連携も進む。日産自動車は久里浜エンジン工場は閉鎖したものの、残った追浜工場はコンパクトカーの主力生産拠点として存在感を増している。電気自動車時代への橋渡し役となるハイブリッド車「ノート」は大ヒット。2000年のリストラ時に廃部となった野球部の復活も2023年9月に発表し、横須賀市とスポーツ振興およびスポーツを通じた地域の活性化について連携協定を結んだ。2020年には住友重機械工業も歴史ある浦賀レンガドックを横須賀市に寄付し、新たなまちづくりに協力することが発表された。残った横須賀市夏島の生産拠点・横須賀製造所では船舶の建造・修理が続き、2023年6月には横須賀製造所内に「新技術研究所」を建設すると発表した。
 大手も中小も世界との競争は厳しい。そのなかで大手も中小も自立して新たなものづくりを模索する。「嘆いても仕方ないので、みんなアンテナを敏感にして自分の意見を持っている。互いの考え方が近く居心地がいい。外で見かけると互いに手を振るなんて、他の地域ではあまりないのでは」(川島社長)という町の雰囲気と、「受注を狙った本命はだいたい失敗に終わるけれど、そうやって動くと派生分野がうまくいく。世の中って面白い」(関根会長)と笑う明るさが、荒波を乗り越えてきたものづくりのまち・横須賀の強さだ。



*関連記事 STORY 009 横須賀の名門工作機械メーカー再建に挑む もぜひご覧ください。


横浜製機株式会社
所在地:神奈川県横須賀市内川1-8-31
代表者:取締役会長 関根宗平
    代表取締役社長 古川史朗
設 立:1957年10月
株式会社 横浜製機ホームページは、こちらから。

入野機工株式会社
所在地:神奈川県横須賀市内川1-3-23
   (登記上の本社は埼玉県川口市領家2-4-16)
代表者:代表取締役 入野紀子
設 立:2020年3月
   (山田工機の創業は1949年)
社員数:19名(2020年12月)
入野機工ホームページは、こちらから。

株式会社川島工業
所在地:本社=横浜市金沢区鳥浜町12-59
    久里浜工場=横須賀市内川1-7-58
代表者:代表取締役 川島宏介
設 立:1952年
社員数:10人
川島工業ホームページは、こちらから。

ANAテック株式会社
所在地:神奈川県横須賀市内川1-7-23
代表者:代表取締役 安藤 知史
設 立:2007年6月
社員数:8名
株式会社 ANAテックホームページは、こちらから。

「Iron Life」ホームページは、こちらから。